日々、歩き












       

     第二十歩/ 犯行予告










(ここはどこだ……?)

  ゆっくりと覚醒する意識の中で、渚は全身を跳ねる痛みを感じた。痛みの後に、自分が縛り付けられ
 ていることがわかり身をよじらせるが、ビクともしない。

「お目覚めだね、よく眠れたかい?」

  おぞましくも聞きなれた声は、渚の前方にある柱の影から聞こえてきた。

  次の瞬間、渚は自分がどのような状況にあるのか知った。

  ここはおそらくどこかの工場だ。まわりには機材やダンボールが山積みにされ、埃を被っている。僅か
 に差し込む光から、今は朝方十時頃だと判断する。

  おそらく自分は数時間ほど気絶していたのだ、と思う。

  きょろきょろと周囲を見渡す渚が可笑しいのか、佐藤はにやにやと笑っている。

「ぁ…ッ!?」

  憎悪を込めてその名を呼ぼうとするが、声が掠れて出ない。何度やってもだ。

「無理しないほうがいいよ。叫ばれると面倒だから、喉は潰しておいたんだ」

  確かに喉に激しい痛みがあった。興味もなさそうに佐藤が身を出してきた、ただ顔だけは面白おかし
 いとばかりに笑っていた。

  どうやって脱走したのか知らない。なぜ今自分が生かされているのかも知らない。

  わかっているのはここにある結果だけだ。

「今ね、稔くんたちに連絡をとろうとしているところだよ」

「!?」

  ちゃんちゃら可笑しいといいたげな佐藤の眼は今までより遥かに淀んでいた。

  声が出ない。佐藤がどれだけ憎くても、心のうちに溜まっていく怒りを言葉に変換することが出来ない
 のだ。

  渚は鋭い眼に憎悪を上乗せすることしかできなかった。

  だが、余裕のせいだろう。渚の眼光は簡単にいなされてしまった。

「まだそんな眼ができるんだ。まあいいか。その眼とも今日でお別れだと思うとね…」

  佐藤の狂気がさらに膨れ上がる。口からは哄笑が漏れ出した。

「せっかくのゲームだ。バッドエンドは用意しておくよ、稔くん」

  佐藤が近づいてくる。渚はどうにか逃げようと奮戦したが、縛られているので自由に動き回れるはずも
 なかった。

  佐藤がポケットから点滴に使う針と、細長い管を取り出した。

  渚の耳元に口を近付けると、寒気がするほど優しく囁いた。

「君は餌。稔くんを絶望の底に叩き落とすためのね。君の命を助ける気なんて毛頭ないよ。せいぜい
悲痛に顔でも歪めてくれよ」

  慣れた手つきで針を扱う。佐藤は調節ネジを何度か調整して確認していた。

  ちくり、とささやかな痛みが肘の裏に与えられる。針から管へ、おぞましいまでに紅い血液が緩慢な
 速度で流れていく。

  渚は佐藤の狙いに戦慄した。

  痛みは僅かなのに、確かに刻まれる余命の時間。

  この男は純粋なる狂気。

  現代社会が生んだ殺人の天才。

  自分はおそらく、もう助からないだろう。だからせめて、彼だけには助かって欲しい。

(…来るな………稔……)

  佐藤 修二。

  この男こそは、普段は理性や常識で内に潜められている。







  ―――悪意の具現―――






          #        #       #





  

  雨が降っていた。どれくらいかはわからないが、かなり大量に。空は曇り、灰色の雲は日差しを一点
 も通そうとしない。

  水滴が屋根を打ち付ける音だけが妙に鮮明に聞こえてくる。高井家の中には三人も人がいたという
 のに、物音ひとつしていなかった。静寂、むしろ無である。

  やがて、頭を抱えていた正隆が懺悔するようにいった。

「俺のせいだ……」

  掠れた声だ。生気はなく、ただ呆然とした抜け殻に思える。

  かけるべき言葉が見当たらなかった。今、正隆に何をいっても無駄に終り、かといって事態を後退も
 進展させることもない。結局は相手の出方待ちなのだ。

  今朝方、鳴神警察署から連絡があった。内容は『佐藤が脱走した』といういたってシンプルなものだ
 った。鉄格子は鋭利な刃物で切断され、警察署が所々切り取られていたという。

  死人が出ていないだけ幸運といえた。

「あの時、俺がリビングに戻っていなけりゃよ…くそっ!」

  自己叱咤。

  悔やみという感情は後になってから湧くものだが、後の祭りということばの通りに先に湧くことは決
 してない。

「後悔は、あとにしてくれ…」

「稔?」

  稔のことばは、今の正隆にとってあまりに酷なモノに思えた。桃花が顔を見ると、誰よりも稔が後悔して
 いそうな、辛い顔だった。何もいえなくなってしまう。

  稔は続ける。

「今必要なのは落ち着いて対処することと渚を無事に助けること。このどちらかが欠けないようにするため
にどうすればいいのか考えてくれ…頼むよ……」

  稔とて、望まぬの結果を出さないために考えていた。

  既に和葉に連絡はとった。大至急動くといってくれたが、間に合うかどうか微妙である。いや、かなり厳
 しいといったほうが正しいかもしれない。

  警察に連絡は無意味だった。

  佐藤によって警察署が切り刻まれ、事態収拾の為に人員は割くことができないという。これには正隆が
 キレかけたが、佐藤の狙いが警察機構のマヒだったことは間違いなかった。

  実際問題、待つことしか出来ない。

  と、着メロが何処からか聞こえてきた。

『ちゃら〜らら〜ら〜』

  静けさを破ったそれは食卓の上に置かれていた。渚の携帯である。しかも、電話だ。何十秒も着メロ
 が鳴る。

  誰も出る気が起きないので、放っておく。すると伝言メモに切り替わった。

『やっほー、稔くん。いるんでしょー?』

  佐藤だ。電話の主は友人に対するように語りかけてくる。

『今頃はどうしていいかわかんないで困ってるんじゃないのかな?』

  誰よりも早く、正隆が怒りに任せて乱暴に掴むと通話ボタンを押した。

「てめぇ、今何処にいやがる!!!」

  正隆の芯から吹き上がる怒りは、通常なら相手を威圧し怖気づかせるに十分足りえるのだが、佐藤は
 どこか含みのある声で驚いた振りをした。

『おお怖ぁ』

「渚を出せ、無事なんだろうな!?」

『どうでもいいけどさぁ。あんたに用はないんだ。稔くんだしてよ、稔くん』

  正隆は握り壊しそうなほど携帯を掴んだ。携帯の至る所がみしり、と軋むが、なんとか自制できたよう
 で、壊れ物を扱うように稔に手渡した。

「渚をどうした?」

  正隆とうって変わって、稔は冷静だった。

『ちょっとばかり傷つけたよ。といっても針の穴ほどのキズだけどね』

  最後に付け足された一言に、圧倒的なまでの悪意が込められていた。電話越しで佐藤にはわからない
 だろうが、稔は歯を噛みしめて耐えていた。

「なにが目的だ?」

  声も抑揚に欠けている。

『うん。君の頭のよさには感心するよ。冷静に話を進めることができるんだからさ』

  電話越しに、えらく鮮明に佐藤の声が聞こえてくる。電話の向こうでケラケラと笑った。

『そうだね、今からゲームをしよう』

「ゲーム?」

『そう。いまからメールを送るからさ。詳しくはそっちで見てよ』

  なにもいう間も無く、電話が向こうから切られる。二分後、佐藤のいったようにメールが届いた。

≪それじゃあ解説するよ。僕はいま鳴神市内のどこかに隠れています。見事探し出せたら君たちの勝ち。渚ち
ゃんも帰してあげるよ。タイムリミットは今日の午後五時までだからね。それじゃあ張り切っていってみよー≫

  横から覗きこんでいた正隆は、どす黒い感情を腹から搾り出すようにいった。

「やろう、なめやがって」

  五時といえば丁度七時間後、警察署が機能を取り戻すと予測している時間である。つまり、完全にこちら
 だけを狙っているのだ。

「ん?」

  明らかにおちょくった文面をスクロールしていくと、添付ファイルがあった。選択すると、インターネットに接続
 される。

  少しずつ、そして一枚の画像が表示された。

「渚…」

  画像にはロープで縛り付けられた渚が映し出されていた。解像度が低いため、顔色までは見えないが、
 確かに生きている。気絶しているようにぐったりしているが、特に傷付けられた様子も無い。

「渚ちゃん、大丈夫、だよね?」

  涙を浮かべている桃花に頷いてやる。

  隣で正隆は耳まで赤くして怒っていたが、さすが刑事というべきか、よく押さえが効いていた。

  稔は鬱蒼と降りかかる不安を振り払い、毅然と背筋を伸ばした。心中で唱える言葉は、世界の在り方。

  ―――およそこの世界で起こる現象はより冷静に『観る』ことができたものが勝つ―――

  クールダウン。幼い時に学んだことは確かな閃きをもたらした。

「…鳴神市の地図は?」

  普段と違い敬意もなにも含まれていない口調で正隆に訊ねる。正隆は意図を理解すると引き出しから
 真新しい鳴神市の地図を持ってきた。使われていないのがよくわかる。

  稔はそれを広げると、胸ポケットに入っていたボールペンでマークをつけた。

  全部で三ヶ所。沿岸沿いの工場地帯と、山間部に近いオフィスビルが列挙する街、南西部にある倉庫が
 並ぶ場所。

「渚はこのどこかに監禁されているはずだ」

「小僧、どうしてそう思うんだ?」

  首をかしげて訊ねる正隆に、稔は強く頷いて答える。

「音だよ。今日は月曜日。俺たちは学校が休校状態だからこうしてここにいられるけど、世間のサラリーマン
たちはそうじゃない」

  耳の辺りを軽く叩く。稔はマークしたところを順々に指していった。

「月曜日の十時にしてはやけに佐藤の声が鮮明だった。つまり、あいつの周囲は静かな状態。ということは
渚が監禁されている場所は平日でも静かな場所。この三つに限られる」

  稔の推測に、正隆と桃花は唖然として口を開けっ放しだった。

  普段何も考えていないような稔が、こんな推理をしたことが意外だといいたそうだ。そんな二人の視線に
 稔は何となく不快感を覚える。

「なんだよう! 俺が真面目なこといったら悪いっていうのかよう!」

「そ、そんなこと、ないよ。でも、ちょっと、意外、だっただけ…」

  うんうんと、桃花の隣で正隆もしきりに頷いている。これが普段人から見られている稔の全体像である。

  確かに完璧に近い推測なのだが、問題があった。

「小僧、これだと三人バラバラになるしかないぞ?」

「うん。そうじゃ、なきゃ、間に、合わ、ない」

  捜索範囲が三つだけにも関わらず、鳴神市の広大な面積が足を引っ張る。三人一緒に候補地を回ってい
 たのでは決して間に合わない。ひとつ見ている間にタイムリミットだ。

  稔は桃花と正隆を交互に見た。

「それでも、やるしかないだろ?」

  二人は頷いた。稔のいうとおり、やるしかない。こうしている間にも時間は流れていくのだ。

「三十分おきに連絡を取り合うんだ。いいか? 渚を見つけたらすぐにその場を離れること」

  正隆は胸元の拳銃を確認した。ふと、心配そうに稔を見詰め、

「小僧、もし佐藤と出会っちまったらどうする?」

「なるべく逃げる。けどどうしても駄目だったら戦うしかないな…」

  ならば拳銃も持たず、桃花のような強い攻撃をできない稔は圧倒的不利だった。そういう眼で見てくる
 正隆たちを一瞥すると、稔は安心させるように穏やかに笑った。

  見る者によっては、焦る自分を励まそうとする行為に映ったかもしれない。

「大丈夫だ、なんとかなるさ。それより、急ごう」

  時計を見る。すでにタイムリミットまで六時間と四十五分。

  これ以上語らっている暇はない。

  稔の担当は工場、桃花はオフィス、正隆は倉庫となtった。

  的確な指示の下、三人は家を出た。















 


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