日々、歩き












       一歩目 / ありふれた平凡な日々











  

  露が青々とした雑草に降り、陽光に照らされ銀色の雫となって地に落ちる。

  日が昇りきらず、雫が空気に混ざって消える少し前の時間帯。世間一般に朝と呼ばれるものはどうしよ
 うもなく希望に満ち、同時にとても気だるい時間でもある。

  朝は眠く、自力で起きることはほぼ不可能。いつまでも惰眠を貪りたいのは誰もが同じで、けれど動き
 続ける秒針はまったく待ってくれない。ああ、無情。

  時刻は、七時二十分。

  家の住人、古館稔は今日も襲い来る睡魔の誘惑を振り払い。今は台所で朝食を作っている真っ最中で
 あった。適当に切ってある髪が傍目には邪魔そうに見えるが、本人は気にしていないのか、特に困ってい
 る様子もない。

  慣れた手つきで包丁を扱う姿がしっくりと似合っている。それもそのはず、もう何年も前から、家族は家事
 を稔一人にまかせっきりである。

  誰もやらないので、嫌々ながらも覚えてしまったのだ。

「ふんふんふん〜ん」

  鼻歌と共に、まな板の上のキャベツが高速で千に切られてゆく。誤差一ミリに満たない、プロ顔負けの
 技術であるが彼にとってはもはや普通のことだった。

  いくらかの時間も経たないうちに、あれよあれよとおかずが出来上がる。

  出来上がったものから順に食卓に運び、配膳する。半熟目玉焼きに輝く白米、鮭の切り身と適温の味噌汁
 は味よし、カロリーよし。

  鬼姑とて、彼の料理の出来栄えには文句を言えないだろう。

  今では家事に楽しみを見出した稔の夢は、立派なお婿さんになること。

  当然、専業主婦である。

「ふふふ、このまま腕を上げ続ければモテモテになるのも夢じゃないな。世界中のおなごが我先にと俺に交
際を申し込んでくるのも時間の問題か・・・・・・」

  妄想に心を躍らせながら、食卓に朝ごはんを並べる。

「ははは、これこれ、俺は一人しかいないんだから。みんなと付き合うなんて無理だよ!」

  稔の脳内ではすでにハーレムが出来上がっていた。現実と妄想の狭間を漂うあたり、まだ寝ぼけている
 のだろう。

  壮大な夢を胸に抱く少年は、計三つの席に料理を並べ終えていた。黄金比率を与えられたような美しい配
 置に思わずうっとりする。

  たいしたことの無いものだったが、自信作であった。

  ここまでで、稔の仕事は一段落だったのだが、

「・・・もうこんな時間か、あいつらを起こさなくちゃな」
 
  狭い台所を出て、階段を一段飛ばしで駆け上り、一つの部屋の前に立つ。

  そこには、起こしちゃいやん(はぁと)by母 と書かれた紙が張られていた。稔は無造作に破り、捨てる。
  
  そして、ドアを思いっきり蹴飛ばし始めた。幾度も蹴るうちに、ドアが不自然に軋み始める、だが稔は
 その力を緩めることなく蹴り続けた。

「う〜ん、入ってま〜す」

  部屋の中から聞こえてきたのは想像よりもずっと若々しい声だった。枕に突っ伏しているのか、声がくぐも
 っている。

「起きろ、もう朝だぞーい!」

  しかし、中からの反応は無い。どうやらまた夢の世界へ旅立ってしまったようである。稔はため息を一つつ
 いて、部屋の中にしっかり聞こえるに言った。

「起きなければ飯抜いちゃおうかなー」

  一息。

  直後、扉の向こうが急に慌しくなる。ベッドから転がり落ちる音や、積み上げられたCDの崩れた気配、
 そして爽やかな朝に似合わぬ奇声が聞こえた。
 
  どうやらタンスの角に小指をぶつけたらしい。

  ドアノブが捻られ、急にドアが開く。稔は僅かに体を反らして、ぶつからないようにした。

「・・・痛い。酷いわ、ミッくん。母さんの脊髄反射を利用して起こそうとするなんて、おかげで小指ぶつけちゃ
ったじゃない」

「脊髄反射、か。自分の意志で起きれないのか?」

  涙を目じりに浮かばせながら、部屋から体を半身ほど出して、稔を睨みつける女性はその名を古館
 和葉という。

  色素が薄いせいで黒ではなく茶髪、緩くウェーブがかかっているセミロングの髪に枝毛は一本も無い。
 顔のパーツのバランスも常人より遥かに優れており、無駄が無い。

  それに、和葉の顔にはほとんど皺が無く、異常に若く見える。しかし、長年のキャリアか、そこはかと
 なく大人の女性オーラが染みでているため、街を歩けば異性の視線を釘付けにすること請け合いだ。

  と、和葉は急に顔を伏せ、もじもじしながら言った。

「でも、ミッくんだったらいいの。だって愛してるもの。母と子としてでは無く、一人の男性として。キャッ、
言っちゃった」

  赤く染まった頬を押さえながら、体をなめかましく動かす姿は大変魅力的であった、だが、和葉からの
 心ときめく告白も稔は母親に欲情するような特殊な性癖を持ち合わせていなかったので意味が無かった。

  よって稔は、なんの感慨も受けた様子は無く、

「朝っぱらから、あんまりふざけてるとおかず一品減らしちゃうぞ? キャッ、言っちゃった」

  和葉と同じように頬を押さえて、体をくねくね。

  全く似合っていない、かなり吐き気を催す光景だ。しかし、和葉は別の衝撃に撃たれていた。

  おかずを減らされる。その言葉にかつてない恐怖を覚える。古舘家の家計は全て稔一人が背負っ
 ている。事実上、古舘家の主権を持っているのは稔であり、稔の言葉には戦時中の天皇以上の発
 言力がある。

  和葉にとって食事は一日の活力であり、最大の楽しみである。おかずを減らされることは和葉にとっ
 てなにより耐え難いものだった。

「お願いですから、おかずだけは減らさないでください」

「じゃあ、とっとと下に降りて待ってろ。先に食べててもいいぞ」

「ヤー(了解)」

  和葉は敬礼すると、朝鮮人民軍よろしく、足と腕を高く振り上げて階段を降りていった。
  
  和葉が降りていくのを確認して、稔はもう一人を起こすために和葉の部屋をあとにする。物置と化し
 ている空き部屋を二つほど横切ったところにある部屋を目指す。

  部屋の前には可愛らしい文字で『桃花の部屋』と書かれた札がぶら下がっていた。

  稔は和葉のときとは違い、至極普通に部屋をノックする。

「おーい、起きてるか?」

「うん、起きてる」

「朝飯の準備ができたから早く来いよ。あと、学校に行く準備も忘れるな」

「わかったー」
  
  和葉のときとはこれまた違い、ドアがゆっくりと開かれる。部屋から漏れた太陽の日差しが、稔の顔に当
 たって目を眩ませる。

  逆光でよく見えないが、身長でみるとだいたい稔と同い年の少女のようだった。

「ん、準備は出来てるのか桃花?」

  目を細めたまま稔が尋ねた。少女は廊下に出て、ドアを閉めた。ようやく
 少女の姿がはっきりと見える。

「昨日、やってたよ」

  桃花と呼ばれた少女は顔を輝かせて頷いた。どこか舌足らずな口調だが、明確な意思を感じさせる瞳が
 印象的な少女である。

  肩までかかる髪は、流れる黒髪。顔は日本人形のように精巧なつくりをしている。かといって冷たく無表
 情でもない。むしろ、暖かく、人をほっとさせることが出来る美貌の持ち主だった。

  ただひとつ、魅力にかげりが在るとすれば、細い首から下がっているカードの束だろう。ラジオ体操カード
 のように書き込む空白のマスがある。

  この少女、戸籍上は稔の『妹』となっているが、七年ほど前に古舘家の養子となった『義妹』である。

「そいじゃあ、飯食うとしましょうかね」

  大げさに肩をすくめる稔に、元気よく頷き、

「うん!」

  天使と見紛う笑顔で、嬉しそうに稔の後に続いて階段を降りていった。


                  #   #   #


  稔たちがリビングに入ると和葉が一人で朝食を食べていた。しかも、稔の分にまでちゃっかり手をつ
 けている。稔の拳にめきめきと力が入る。

  たらりと和葉の額に嫌な汗が流れた。

「何をしている?」

「・・・エヘッ!」

  舌をだして、ウインクをする姿は子供の無邪気さ、やんちゃな感じをよく表現していた。まあ、表現してい
 ただけなので稔が許すわけが無かったのだが。

  次の瞬間、稔は中を舞っていた。自重と力のベクトルを計算に入れたドロップキックが和葉の延髄に叩き
 込まれる。

  和葉が苦痛の声を漏らすが、体勢を整える前に稔に後ろへまわり込まれる。

  後ろから稔が抱きしめるように伸ばした腕は空を切った、目の前から和葉の姿が消えている。刹那、目の
 端に黒い影が映る。

  視線を下に移すと和葉は前転の要領でカーペットが敷かれた床を転がっていた。
  
「チッ!!」

  舌打ちして稔は和葉を追撃する。

  だが、既に和葉はリビングのドアの前に立ち、勝ち誇ったような笑みを浮かべていた。

「ざんねんね、ミッくん。もうちょっとで私を捕まえれたのに」

  稔は立ち止まる。追いつくには距離が離れ過ぎていた。相手が一歩でリビングから出られるのに対し、稔
 の位置からは少なくとも五歩はある。

「いただきます」

  この状況で桃花だけは手を合わせて行儀良く一礼、黙々と朝食を食べていた。

「それじゃあね、桃花ちゃん、ミッくん。アディオス・アミー・・・」

  そう言うが早いか、身を翻し、颯爽と部屋を出る。

  と、

「うおらぁ!」

「ゴッ!!!」

  和葉の体がリビングに倒れこむ。和葉はわけもわからず後頭部を強打した。

「ふふふ、つーかーまーえーたー」
  
  目を爛々と漆黒に輝かせながら、床に転がっている和葉の肩を補足する。稔はカーペットを利用して
 和葉を転ばせていた。和葉が後ろを向いた瞬簡に足元のカーペットを引き抜いた。

  そのまま和葉は、慣性の法則に従って、動き出した体のバランスを維持できず転んでしまっていた。

「こ、ここは冷静に大人の話し合いをしましょう? 人間は他人の間違いを許すことが出来る生物なのよ?」
  
  絶望的な状況下で和葉が涙混じりで必死に哀願する。

「で?」

「間違いを認めて、間違いを許す。そうして人は真の信頼関係を築けると思うの」

「そうだな、俺もそう思う」

「だ、だったら」

  頷いて、しかし、稔は唇の端を吊り上げた。自分の拳を握り締め、中指の第一間接を和葉のこめかみに
 やさしくスタンバイ。

「それとこれとは別だろう?」

「ご、ごご、ごめんなさい! もうしません!! だ、だからぐりぐりは・・・やめてえええ!!!」

  気持ちのよい朝に、断末魔の悲鳴が轟く。

  同時に、桃花は朝食を食べ終えていた。

「ごちそうさま、でした」

  お行儀良く、手のひらを合わせながら深々と頭を下げる。

  日本の伝統、ちょっとしたテーブルマナーに該当される『いただきます』、または『ごちそうさま』の時、両手
 の平を合わせて『合掌』のポーズをするのは一般的であるが。

「ひぎゃあああああああああああああああああああああああああああ!!!」

  桃花の合掌は、果たして食事を終えてやっただけなのか、それともすぐ隣で起こっている惨事の被害者、
 和葉に対するせめてもの情けか。

  その真意を知るものは誰一人いない、いないったらいない。

「ぐぎゃああああああああああああああああああああああああああああ!!!」

   死神も恐怖で逃げ出しそうな和葉の悲鳴は空気の澄んだ青空に呑み込まれていった。











 


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