日々、歩き










  彼と初めて出会ったのは、木枯しが頬を切り裂くぐらい寒い秋だった

  初めの内はどうも馬が合わなくて、なんどもケンカをした

  それがどうだ

  今では彼に惹き付けられ、胸に秘めた思いを打ち明けられぬ自分がいる

  柄にもない

  笑えもしない

  だけど

  最後に

  たった一度でいいから














  ―――――会いたい

















         第二十二歩/ 友よ















「はあっ、はあっ、くそッ! どこだ!」
  
  全身を濡らしながら、稔は工場を次々と回っていた。傘などとうに捨てた。おかげで全身ずぶ濡れで
 あるが、今はそれすらも省みない。

  日が沈みかけている。曇り空からはどこまで沈んでいるのかは判断できない。

  時計を見る、四時四十五分。もはや残り十五分を切っている。

「くそっ!」

  正隆や桃花たちもまだ渚を見つけてはいない。

  三人で割り振ったとはいえ、捜索範囲が広すぎる。該当しそうな工場を一つずつ点検して、ようやく半分
 終えたところだった。

  最後の定時連絡は先ほど終わった。つまり、後は各自で渚を探さなければならない。

  焦燥は体を這いずり回り、絶望は蛇のように機を伺っている。それでも稔は諦めるわけにはいかなか
 った。

  割に合わない、めんどくさい、どうして俺がこんなことを。いつもなら浮かぶはずの考えは微塵も現われ
 ない。稔は、己に心境の変化に果たして気づいていただろうか。

  滴り落ちる水はそのままに、稔は巨大な工場の前に辿り着いた。ガラスの何枚かが破れ、外壁は錆付
 いている。いかにもな廃棄済み工場だった。

「ここは、どうだっ!」

  観音開きの鋼鉄製ドアを開け放つ。中は外界の僅かな光を取り込み、点々と照らされているだけで全体を
 把握することはできなかった。

  だが、空から差し込む一条の灰光が照らす先。

  後光を浴びるように、そして幾本もの鉄パイプで作られた柱に縛り付けられている人影があった。

「…渚?」

  俯いたままの人影は答えない。気絶しているのか、意識がないのか、ともかく歩みよってみるしかなか
 った。近づくにつれて、だんだんと輪郭がはっきりとしてくる。

  渚だった。間違いない。肩が動いている。まだ生きている。



  だが稔は気づいていた。



  点々と続く光の道を行く。佐藤が指定した時間まであと十分も残っている。だから大丈夫だ。佐藤の姿が
 見えないので安心はできないが、渚をあそこから降ろしてやらなければ。



  しかし、稔は悟っていた。



  周囲に注意して行こう。いつ佐藤が飛び出してくるかわからない。それにもし、渚が怪我をしていたら
 早く病院に連れて行かなければならない。




  それは卑しいまでの虚構。自らの心を騙すための弁護にすぎなかった。理性は希望を保ち、本能は絶望
 を訴える。望みとは裏腹に、心はどんどん冷え込んでいく。

  稔の中の冷静な部分は訴えていた。近づくな、あそこにあるのはただの絶望でしかないと。

  何度否定しても考えは消えず、稔の体を後退させようと引っ張る。

  たった十数メートルの道がとても長く、穏やかな時間を刻んだ。

  近づく途中で、足元の水溜まりを踏んだ。ただしそれは粘着質な『赤い水』だった。

  渚は最悪の予想に反してまだ生きていた。

  そう、‘まだ’―――生きていた。



  ゆっくりと拘束を解き、渚の体を慎重に降ろしてやる。誰かが自分に触れたことに気づいたのか。渚は
 うっすらと眼を開けた。

  ただそれは焦点が定まっていない。眼から光が消える寸前の、儚い瞬き。数度繰り返してから、じっ
 くりと焦点が纏まっていった。だが、既に見えていそうにない。

「っ…ぁ?」

  喉が潰されていることに気づいた稔は、唇の動きは呼んだ。動きは二度、『誰?』と。

「渚……俺だよ」

  そういうと、渚は嬉しそうに笑い、泣きそうに顔をゆがめた。

  稔は立ったまま支えていた。このままでは苦しいだろうから、膝を曲げて、なるべく渚に楽な姿勢を
 とってやる。

  膝を地面につくと、ぴちゃ、と生暖かい粘っこい水が跳ねた。

  真紅の水は、渚の腕に刺さっている針を通過し細長い管を通ってきたものだった。渚の血は円状に
 広がっていく。

  決して止まることなく、淀むことなく。

  痛まぬように、針を抜いてやる。これで渚の体から血が流れることはなくなったが、渚はもう―――。

  許されないと知りながらも、稔は謝っておきたかった。それが自己満足のための、ただ自分が救われ
 たいがための独白と知りながら。

「…俺がもっと……ちゃんとしていれば…」

  稔の懺悔は、渚が首を左右に振ることで止められる。力なく、だがしっかりと首を振る。

  血が足りず、もうほとんど力が入らないのに、渚は必死に唇を動かした。

「ぅ……ぃ………ッ…(ありがとう、助けに来てくれて)…』

「ッ」

  言葉にならない意志に、稔の心は窮屈に詰まった。

  渚はこれまででも最も穏やかな、なにより優しく微笑んだ。

  見えていないはずの眼で稔の顔を正面から見詰め。光が消えゆく眼で、いつものような力強い意志を
 秘め。出ないはずの声でしっかりと感謝する。

  いつもの渚が、そこにいた。

「けど…っ!」

  なにがありがとうなものか、自分は渚を救えない。こうやって見ていることしかできないのだ。

  渚がなにをしたというのか。なにか間違ったことを犯したというのか。

  理不尽だった、無遠慮だった。いつもそうだ。

  渚がこんなことになる理由はひとつもないのに、世界は確かに渚の死を望む。

  そうやって苦渋に歪む稔の顔にそっと触れる手があった。小刻みに震えるそれを包むように優しく握り
 返してやる。渚の手は冷たく、訪れる死の温度を保っていた。

  稔はもうなにもいわない。渚の時間が既に尽きかけていたから、

  無駄に時間を使うより、せめて渚のいいたいことを言わせてやりたかった。聞いてやりたかった。

  手を握って、じっと待ってやる。だが渚はなにもいわない。嬉しそうに稔の頬をさすって、それだけで
 十分満足した表情だった。




  混濁する意識の中、渚はしっかりと稔の存在を感じていた。

  自分には出来すぎた死に様だ、と思う。

  こうやって捕らえられても、それを助けに来てくれる人がいて、腕の中に抱いてくれる。




  しかもその人は、自分が心から想う人で―――――。





  躊躇いながら渚が口を開いた。稔は決して見逃すまいと、注意深く唇の動きを読む。

  だが、渚は開きかけた口を閉じてしまった。

(フェアじゃない…そうだろ……桃花……約束…したもんな………)

  かつん、と渚の手に硬いものがあたった。今はもう見えないが、おそらくそうだといえる物。

(…つけてくれたのか……)

  渚の手に微かにあたったのは、先日置いて行ったペンダントだった。

  なんだか、心があったかくなってきた。

  ほんとうに柄にもない。

  自分が掲げていた信念は『何事も指を咥えて待つようなことはしない』というものだったはずなのに、
 どうやらこと稔に関してはそういかなかったらしい。

  桃花との約束もあったのだが、それは表向きの理由だけ。実際は稔の本心を聞くのが怖いのだ。
 
  もし断られたら、と思うと震えが起きるほどだ。

  でも、それも悪くない。

  たとえ稔の『友人』で終わるとしても

  このまま、こうやって、この人の腕の中でなら……………


























『お前、誰だ?』

『ええい! 人に名前を聞くときはまず自分から名乗るのが礼儀だろうが!』

『変なヤツだな。まあいいや、俺の名前は高井 渚っていうんだけど。お前は?』

『聞いて驚くがいい。俺の名前はな、古館……』






『おーい、稔! なにしてんだお前!』

『ああ、いや、ちょっとばかし新ネタの研究を…』

『女生徒のパンチラを盗撮することが、か?』






『あ、見て見て。これブロック崩しっていうんだってー。おもしろーい』

『うん、よかったな』

『ん? 大変だ、今日の日経平均株価が戦後最低値を記録だって!?』

『そりゃたいへんだ』





『そういや渚、昼飯は食ったのか?』

『いや、まだだけど』

『ならちょうどいいな。お前の分も作るから待っててくれ』





『渚、アイスでも食うか?』

『…は?』

『ほほほ、ほら! あそこの自販機で売ってるだろ!』





『稔…』

『んあ?』

『なんでもないよ。じゃあな』

『? ああ、またな』












  ――――――楽しかったな……



































「……なぎ…さ?」

  稔が気づいたのは、少し経ってからだった。

  いつのまにか支えていた体が重くなり、頬を撫でていた手の動きが止まっている。

  呼びかけても答えはない。触っても暖かさがない。

  渚は眼を閉じ、微笑んで、まるでいい夢を見ているように安心しきった表情だった。

  稔は渚の体を抱きかかえたまま、手をそっと降ろしてやった。そのままでは重力に従って落ちて、血で
 汚れてしまう。両膝と背中を持って抱き上げる。

  既に生が抜け落ちた体は、悲しみの重さが含まれていた。

  一閃の光が差し込んでいる比較的綺麗な場所を選んで、横たえてやる。今の稔には長時間走り続け
 たことの疲れも、正隆たちへ連絡することも、すべてが無関係に思えた。

「……」

  渚の顔にかかった髪の束を壊れ物をあつかうように払ってやる。

  呆然と見詰めても渚は動かない。ただ、眠っていた。

  眠れる森の少女は、もう二度と目覚めることはない。

  稔がそっと頭を撫でてやる。

  渚は楽しそうに笑っていた。















 


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