日々、歩き















       

     第二十三歩/ 我、汝ニ報イヲ与エン













  

  雨の勢いは弱まった。天井を打ち付ける雨音は柔らかいものに変わっていく。

  空は灰から蒼へ。底抜けに高く、憂いを称えた空から降る涙は終わった。細切れになった雲の隙間から
 は幾条もの光が差し込んでくる。快晴となりつつあった。

  一点の異常を除いて。

  雲が霧散していく空で雷が鳴った。方々へ散り往きながらも、灰雲は所々から電流を放出している。

  それは普通の放電現象と異なり、まるで違うモノだった。



  まだ雨は降りそうだというのに、結合だけが解かれていくような―――。



  稔の顔からはあらゆる感情が消えうせていた。何事も初めから存在しなかったのように。ひび割れから
 差し込む光を浴び、肩膝をついて、壊れたブリキ人形のように固まり、ずっと虚空を見ている。

  稔の空ろな眼に、柱の影に隠れていた佐藤が入ってくる。

「ざんね〜ん。間に合わなかったね」

  佐藤は笑いを喉の辺りで堪えるようにしているが、愉快だといいたげな顔までは隠しきれていない。口は
 いやらしく横に割れたまま、濡れた前髪をかき上げた。
 
  対照的に稔は、誰も、何も……すべてを冥い闇ごと瞳の中に捉えていた。

  無。虚無。空白。

  からっぽだった。稔の瞳からは汲み取れる感情はなにもない。すべてを呑み込みかねない暗黒が宿っ
 ているだけ。瞳孔にも光を感じられない。

  これほどまでに、人から感情が消えうせることがあるのかといいたくなるほどに。

  佐藤は前進すると、大げさなリアクションをとった。左手を額に被せて首を振る。

「五時まではもつと思ったんだけどなあ。五分残ってるけど、もう死んだみたいだね」

  稔は俯いて、渚の顔を覗き込んだ。冷たい、人肌というには冷たすぎる体温。何度確認しても事態が変
 わることはない。時間は、そのまま停止している。

  佐藤は声を殺して笑った。純然たる悪意を込めた嘲笑。

  今の状況が可笑しくてたまらないのだろう。

「医学書には体重の三分の一の血が無くなれば、失血死するって書いてあったんだけど。ちょっと配分を
間違えちゃったみたいだよ。まあ、五分ぐらいどうってことないか」

  稔は黙して語らない。別な方角を芒っと見ていた。

  まるで自分が無視されているようで、佐藤は眉尻を下げた。

「おもしろくないなぁ、もっと泣くとかわめくとか怒るとか無いのかい? 君の大事な友達が死んだんだよ?
そういうのを期待して僕はこんなに凝った演出したんだからね」

  探し出せるかどうかぎりぎりの時間を指定して、タイムリミットを越えたら渚が死ぬように仕掛けまで作った
 というのに、一番絶望に陥って欲しい者がなんの反応も起こさない。

  これではなにも楽しくない。

「何の面白味もない、もういいや、君も死んでよ」

  乾いた声で佐藤がいう。

  佐藤の周囲に風が収束し、強大な力を貯め始めた。鋼鉄すら切断する、先日よりも遥かに研ぎ澄まされ
 た圧倒的な力の刃。

  すべてを断ち切る風なる刃は何事も無いように集っていく。









【………報いを……】









「っ…?」

  耳朶を打った声に佐藤が眉根を寄せた。

  稔を見るが、下を俯いたままで何言も発した様子はない。
  
  空耳か、と呟くと再び刃を形成していった。甲高い音は工場中に広まっていく。今度こそ何の問題は
 無い。

  放とうとした、その時

【報いを…】

  再び飛び込んできた声は野太く、筋肉質な男の声だった。

  稔ではない。佐藤の全く知らない人物の声が聞こえていた。

「誰かいるのか!?」

  周囲を見渡す。工場は雨が滴り落ちる静寂が包み、人の気配など微塵も感じなかった。

  誰もいないのに誰かの声がする。瞬間的に佐藤の頭はパニックに襲われた。過敏なまでに目を巡ら
 せては振り返っている。

【報いを】

  ふっ、と佐藤の耳元で誰かが囁くように。

  冷や水を浴びせられたように振り向くが、当然のように人はいない。荒れ果てた工場があるだけだ。

  なにかがおかしい、そう佐藤が悟った時には始まっていた。

【報いを】

  真正面から、女性の声。

「ッ?」

  当然、女性などいるわけがなく。

  凝っと俯いている稔がいるだけで……。

  ―――瞬間

  佐藤の眼前で、空間が大きく揺らいだ。大気ではなく空間。一瞬だけだが、稔を中心として渦のよう
 に世界が歪んだ。

  佐藤の眼には、歪みの根源がになにかまったく別の『モノ』になったように感じた。

  それは稔であって、稔ではない、別の何か。

【…報いを…】

  今度は天井から降ってくる。おぞましいまでの音量で聞こえてきた。

  佐藤とて、事態の異常性にはとっくに気づいている。

  だが現状確認ができない以上、佐藤の混乱はピークに達していく。

「な、なんだよ…?」

  佐藤を取り巻く声の数は増えて行った。

【報いを】

  生まれたての赤ん坊の、穢れなき無邪気な声が虚空から降り注いでくる。

【報いを】

  背筋が凍るような妖艶な女性の声が、ちょうど後ろから抱きかかえるように、

【報いを】

  しわがれた老婆の恨めしさがにじみ出た声が横から投げつけられる。

【報いを】

  楽しそうに含み笑いをしながら、幼い少女の声が足元から昇ってくる。

  どの声もいっている言葉は同じ、叩きつける意味も同じ、込められた感情も同じであった。

  だが、どこから聞こえてくるのかだけがわからない。耳元か、足元か、もしかすると目の前にいるはず
 なのに、人の影も形もない。

「稔くん…なに、してるんだよ……」

  恐怖で唇を震わせながら、佐藤が稔に問うた。力を得てから日が浅いとはいえ佐藤も能力者。

  事態が常識の外ならば、常識の外の"力"が働いているということ。

「一体……これはなんの"力"だ? 使っているんだろう?」

  全く未知である存在は人に恐怖を与え、判断力を低下させる。混乱した思考は混乱した推測を生み、
 混乱から生まれた推測は人の心を恐怖で蝕んでいく。

  稔はじっと俯いたきりで答えない。

  ―――――ぐにゃり

  稔を中心とした歪みが一段と大きくなった。世界が捻じ曲げられ、壊されているようにすら見える光景
 は異質以外のなにものでもない。

【報いを―――】

  先ほどよりもはっきりとした怨嗟の声が、工場に大きく響き渡った。

  叫びださないだけ、佐藤はまだ正気を保っていたといえた。影も形も見えない相手から向けられた無数
 の憎悪の意志は、圧倒的な殺意をぶつけて心に傷を刻んでいく。

  佐藤は、自分以外のすべてのモノが敵に回ったような感覚に襲われていた。

「も、もういい! 君を殺して僕は逃げるとするよっ!!!」

  未知の恐怖で震えながらも、佐藤は集中して刃を形成し始めた。

  至極の一撃。

  殺す楽しみも、命乞いをする様を見ることも、なにもいらない。ただ佐藤は、この恐怖感から解放された
 い一心だった。
 
  目の前の少年を殺すことで、得られる安堵感。それだけを求めていた。

  だが、佐藤は心に巣食う恐怖感の正体と原因に気づいていなかったのだろう。

  それは先日接触した男とは別な畏怖。

  弱肉強食の世界。弱者が強者に抱く絶望。決して覆すことができない力の差を見せつけられた時に湧き
 出る種類の感情だということを。

  鈍磨した人の本能はそのことを察知するに、いささか質が悪すぎた。

「死ねっ!」

  佐藤の意志に従って目標を切り刻む刃は、寸分の狂い無く飛来する。鋼鉄すら切断できるそれらは確か
 に稔の四肢を分断するはずだ。

  しかし、どういうわけだろうか?

  ――――パッ

  膨大なエネルギーを持っていた佐藤の風刃は稔にあたる直前で消え去った。無論、佐藤がそんなことを
 するわけがない。

  何が起こったのかわからない顔で、佐藤は稔を見た。

「な、なにをしたっ……」

  鋼鉄も切断できる刃は、なにもない空間で消失した。前回のように弱点はない。今回は間違っても消える
 はずがないのだ。

  狼狽する佐藤を無視して、俯いたままだった顔を稔は緩慢ながらも上げた。

  佐藤は一歩後退して稔を睨みつけるようにしているが、畏怖に染まった顔だけが酷く不恰好だった。
 額には玉のような冷や汗が幾つも浮かんでいる。

  そして、今度こそ

  容赦なく

  狂い無く

  怜悧な瞳で

  稔自身が口にする。

「報いを…」

  次の瞬間、佐藤は己が眼を疑った。

  工場全体が小刻みに震え始めたのだ。転がっていた椅子も、むき出しの鉄骨も、天井にある梁も、馬鹿
 みたいに震えだして止まらない。

  ―――崩壊。

  もともとが廃棄された工場だったせいか、コンクリートの壁が崩れ始め、床に落下しては巨大な穴を穿っ
 ていく。破壊の速度は急速に高まっていき、止まることを知らない。

  天井から落ちてきた鉄骨を避けて、佐藤は体制を整えた。

「に、逃げなきゃっ・・・!」

  砕け散った鉄骨を尻目に佐藤は振り向いて走り出そうとした、が、足が動かない。下、足のあたりを見
 ると、いつの間にか有刺鉄線が服に絡まり、動きを束縛していた。

  次に、目の前に何本もの鉄骨が落ちてきた。続いて右に巨大なコンクリートが落ち、左側にも天井の
 梁が落下してきた。

「逃げ道が…!」

  完全にどん詰まり状態になった佐藤。事態の悪化はこれだけで済まなかった。

  ふっ、と視界が急に暗くなる。巨大な物体が上から落ちてくることで出来る影だった。初めは一メートル
 ほどの影が、コンマ秒毎に大きくなっていく。

  上空を見る。十字架の形をした巨大なコンクリートの塊が佐藤を押しつぶそうと迫ってきていた。

  崩れゆく工場。

  意識のある限り全てを記憶しようする佐藤は、泣きそうに顔をしかめる少年を目視した。

  硬いコンクリートの雨が降り注ぎ、醜悪な鉄骨の骨組みが折れて、工場が工場であることを放棄した
 状況で稔は渚の傍らにたったまま動かないでいた。













  ここでたった今、一つの建物が崩壊した

  老朽化が激しかったせいだろう

  この現場を見た者はそういった

  無数に転がる瓦礫の山
 
  中央で立ち尽くす稔の周りだけが、倒壊の影響を受けていない

  そのことに気づいた者がどれだけいただろうか

  痛みに耐えるように、胸を押さえつける少年の顔は

  今はもう

  わからない













  


 


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