日々、歩き








       

     第十歩/ 不可視の風音








「お前がやったんだろ!? 正直に言えよ!!!」

  コンクリートの壁に囲まれた殺風景な部屋に三人の男。一人の男は机の前に縮こ
 まり、若い男に怒鳴られている。もう一人はその光景を部屋の隅でじっと眺めていた。

  鳴神警察署の奥にある取調室では今日も事件の容疑者、宇藤 孝治が取調べを
 受けている。まだ二日しか拘留されていないにも関わらず、宇藤の顔からは生気が
 消えうせていた。

  すっかりと青ざめ、覇気がない声で宇藤が言う。

「俺は、俺は…やってません……」

「嘘つけ!!!」

  若い刑事が宇藤に詰め寄る。宇藤が猫みたいに肩を震わす。と、それまで部屋の隅
 に立っていた壮年の刑事が寄りかかっていた壁から背を離し、いった。

「やめとけ村下」

  年老いた刑事が諭すと、村下は名残惜しそうに振り向いていった。

「でも、高井さん……」

「いいからいいから、今日はもう終わりだ」

  いって、正隆は取調室の扉を開けて、先に出て行った。村下も早々に切上げて
 正隆の後を追う。

「待ってくださいよ!」

  後ろから呼びかけられ、正隆は立ち止まり、振り返った。村下は息を切らして、膝に
 手をついている。

「どうして途中でやめるんですか?」

  村下にいわれ、正隆は複雑な顔をした。

「な〜んか、あの先生さんは犯人じゃない気がするんだよ」

  正隆が緊張感の抜けた声でいう。村下は不満そうに唇を尖らせ、

「それ、俺が一昨日いったじゃないっすか」

  というと、正隆が皮肉めいた口調で、

「そうはいってなかっただろ。超能力とかふざけたことはいってたがな」

  う、と村下がのどを詰まらせる。正隆はそんな村下を楽しげな目で見ていた。

「もう、それはいいじゃないですか。俺だって本気でいってたわけじゃないですよ…」

  すこし拗ねた様子で村下がいう。この若い刑事はどこか少年のような面影をいまだ
 残している。それが正隆にからかわれるいいネタになっているのだろう。

「ま、ともかく今日は聞き込みでもしてこようじゃねえか」

  村下の肩をぽんぽんと叩く。村下は見上げるように正隆を見て、いった。

「っていうと、どこにいくんですか?」

「決まってるだろ、現場だ、げ・ん・ば」

「ああ、命樹高校ですか」

  正隆が腕時計を見る。時刻は四時をまわる所だった。この時間帯だと多くの生徒が
 部活に励んだり、家に帰る時間帯と被る。聞き込みにはもってこいの時間だった。



              #        #        #



  冬よりも長く空を漂う太陽が、西に傾き、その光は無色からオレンジへと変わっていく。

  命樹高校の広いグラウンドからは、運動部の威勢のよい声が命樹高校の校舎に反響して
 二重に聴こえた。校舎からも、吹奏楽部の奏でる楽曲が聴こえてきた。

  楽曲はクラシック、J.S.バッハ作曲 『小フーガト短調』。曲名を知らない者でも
 フレーズを聞けばすぐわかるほど有名な曲である。

  曲のイメージとしては不気味な印象を受ける。繰り返し奏でられる主題は人の心の何か
 をぞくりとなぞって消えていく。

  夕日になりつつある光を体一杯に浴びている少年は、しばし立ち止まって聴き入っていた。

「なんとも、いや〜んな曲だな〜」

  少年が自身の体を軽く抱き、見るものを深く後悔させるポーズをとる。

  だが、少年の行動を見ているものはいない。哀れむような風が一陣。

「うわ、反応ないってキツイ」

  虚しくなった稔は肩を落として歩き出した。部活に入っていない稔は、このまま家に帰る
 だけだ。

  桃花はいない。言葉はおぼつかないが、渚並みの運動神経をもつ桃花は、この時間帯
 真面目に部活に励んでいる。

  昨日のように、家の冷蔵庫が寂しくなったときは買い物を手伝ってもらうが、普段は
 一緒に帰ることはあまりないのが実情である。

  と、

「ってあれ? 渚じゃないか」

  目を凝らすと、十数メートルほど先に渚が立っていた。誰かを待っているように見える。
 どこかそわそわとした様子で、しきりに鞄を覗き込んでいる、その姿はまさに恋する乙女…。

「まさか…これ、か?」

  稔は自分の拳を軽く握り、小指だけを軽く曲げて突き立てる。

「ほっほう! これほどおもしろいものはそうは見られん! さっそく見学だ! 
抜き足、差し足、忍び足…」

  ひそひそと、稔は物陰に移動する。もちろん、渚に気づかれてはならない。
 せっかく渚の恋人が拝めるかもしれないのだ。バレては台無しである。

  稔は、渚のプライバシーを覗くため、身を潜めて、耳を傾けた。



               #        #        #



「不気味な曲だな…」

  校舎の開け放たれた窓から漏れるクラシックの音色に、渚は顔をしかめた。音の波が
 鼓膜を打つたび不快になる。こんな辛気臭い曲は渚の好みではない。

  渚は肩からかけている鞄に入っている、分厚いハードカバーに覆われた本の背表紙を
 みた。同時に昨日いじめられていた眼鏡の少女、井上 小夜子を思い出す。

  名前から同じ学年であることを割り出し、昼休み彼女の教室に行ったのだがいな
 かった。クラスメイトも昼はどこにいるのかわからないといっていた。

  だから、教室に戻ってきたら放課後に返すものがあるから指定する時間に校庭脇の
 茂みに来てもらうように伝えてもらった。

  腕に巻いた時計をみる。四時十五分。すでに待ち合わせの時間から十分過ぎている。
 ちゃんと連絡は伝わったのかと、渚は軽く不安になる。

  ため息をひとつ吐く。

  渚は、本を返すついでであの少女にガツンといってやろうと思っていた。

  苛められてやられっぱなしなんて、渚からすれば馬鹿みたいなことだった。やられたら
 やり返す。渚は指を咥えてただ事実を受け入れるような人間が大ッ嫌いだった。

  なにかいってやらねば気がすまない。

  すると、背後から足音が聞こえた。振り向くと、件の女生徒がいた。

「あ、あの…高井 渚さん…ですよ、ね……?」

  おずおずと、妙に自身のない声で、井上 小夜子が尋ねてきた。

「ああ、俺が高井だけど」

  常に何かにおびえているような少女に嫌悪感を覚え、渚がぶっきらぼうに言葉を
 返すと小夜子はさらにオドオドし始めた。

「あの、その…クラスの人から…高井さんが呼んでたって…聞いたんですけど……」

「そうだよ。ほら、これ」

  どうやら連絡はしっかりと届いていたらしい。無感情にいって、鞄から本を無作法に
 取り出して手渡した。
 
  すると、小夜子は驚いたように目を見開いた。

「あ、それ! 私が借りてた…」

「昨日図書館でいじめられてただろ、その時落としてったんだよ」

「あ、ありがとうございま、す…」

  どもりながら小夜子が礼をいう。大事そうに本を抱え、手提げ鞄にいれた。それだけで
 鞄が何倍にも重くなったように見える。

  小夜子が本を鞄に入れるまで待って、渚は切り出した。

「あのさ、ひとつだけ、いいかな?」

「は、はい。なんでしょう?」

  小夜子が目を点として意表を突かれた声をあげる。

  渚は、感情を抑えるようにして語りだした。

「なんでいじめられてるんだ?」

「……え?」

  渚が、強い意志を持った目で、小夜子の目を覗く。だが小夜子は応えない。俯いて
 突然の質問に沈黙を守ろうとしていた。

  下唇を噛み、耐えている。

  小夜子の様子は、渚の質問に耐えるというより今までの辛い記憶に耐えているよう
 に見えた。

  渚は、躊躇なく続ける。

「どうしてやりかえさない? なにが怖いんだ、報復が怖いのか? やれるだけやってみろよ。
 俺はお前みたいに、ただ運命を受け入れますってみたいなやつが一番嫌いなんだ」

  渚が、自分の意見、信念を小夜子にぶつける。

  ぶづん

  と、ゴムが切れるような音が、小さく、だが確かに渚の耳に届いた。見ると、小夜子の唇
 から血が出ている。唇を強く噛みすぎたせいで肉が切れていた。

  渚を見詰める目が、昏い感情で塗りつぶされていく。

  つい数分前の、どこか怯えているような少女の姿はもはやなかった。

「……あなたみたいな人には、わかりませんよ…」

  小夜子は、眼鏡越しに目をぎらぎらと濡れて輝かせながら渚を睨んだ。その眼差しに
 籠められた黒い感情に、渚は知らずあとずさっていた。

「あなたみたいに、強くて、頭もよくて、綺麗で…そんな、才能に恵まれた人には
 絶対にわたしの気持ちはわからない…わかってほしくない……」

  低く低く、遥か低い地点から世界を見る少女の言葉に、渚は軽い寒気を覚える。

「もういいですよね? それじゃあ、私はやることがあるので帰らせてもらいます・・・」

  いって、小夜子は身を翻して歩き始めた。渚は、なにか声をかけようと口を開くが、
 あとに続く言葉がなかった。

  ただ、徐々に遠くなる背中を見詰めることしかできなかった。



           #        #       #



「で、出づらいぞ〜い」

  渚たちのやり取りを見ていた稔は、冷や汗でいっぱいだった。

  もともと体勢に無理がある、木に体が隠れるようにしているため、曲がりくねった
 枝に身を隠さねばならず、その体勢は非常口のマークになっていた。

  稔が辛い体制をキープしているのも、渚の恋人をこの目にしかと焼き付けるため。

  なのに、渚に会いにきたのは恋人などではなく、女生徒だった。

  位置が離れすぎていたせいか、会話は聞き取れなかったが、察する雰囲気から
 かなりヘヴィー。稔はおもしろさを求めてこんな辛いことをしているのに、まったく報われ
 ていなかった。

「うう、ちくしょう。なんだよ、渚のやつ。せっかくなんだからセンチメンタル・ジャーニーな
 シーンを見せてくれてもよかったじゃないかよう」

  痺れだした手足を根気で支えながら、稔は涙を堪えた。

  ―――ああ、この世はなんたる理不尽に包まれているのか

  稔が待ち望んだラブコメ学園恋愛物的展開は訪れなったが、確実に悪意は近づいていた。



         #         #       #



「いやあ!!! 来ないでぇええ!!!」

  夕暮れに、大気を突き刺す悲鳴が上がった。危機感を煽られ、渚は瞬時に辺りを
 見て、悲鳴の出所を確認した。

  やや斜め前方。女生徒が絶望に顔を歪ませながら『なにか』から逃げ惑っている。
 遠目だが、女性徒の顔に渚は見覚えがあった。

  昨日、図書館で井上 小夜子を殴っていた女生徒である。先日の強気な印象はなく、今
 は怯えきった様子で、しきりに耳を押さえたり、手を振り回している。

  その光景にデジャ・ヴを感じる。

  先日佐藤から聞いた、一昨日起こった事件の被害者と全く同じ行動をしていることに渚
 は気づいた。

  女生徒の逃げ惑う姿に、部活中の生徒たちも事態の異常さに気づいていた。
 部活をする者も、家に帰る者も、ただならぬ気配に立ち止まる。

  だが、何が起こっているのかわかっていないようだ。渚だってなにが起こって
 いるのかわからない。

「こっちへ!!!」

  だが気づいた時には叫んでいた。渚の声に導かれるように、女生徒が向きを変えて
 全速力で走ってくる。

  体中の器官が女生徒の置かれている危機を知らせているのだ。

「はやく!!!」

  二度目の叫び。恐怖に顔を歪ませながら、女生徒は渚のすぐ傍にまで来た。もうすこし
 で渚のいるところまでたどり着く。

  あと五歩、四歩、三歩、二歩、一。

  女生徒が渚の前にたどり着いた時―――異変は起こった。

  まず、女生徒の体に細く紅いラインが走った。

  紅い線が体を区分した。と、思った矢先、女生徒は崩れ落ちた。

  実際はすぐ、体のパーツは離れたのだろう、が、渚にはそうは見えなかった。紅いライン
 を起点として、ゆっくりと頭が体から離れ、腕も、足も、胴体までも…。

「あれ?」

  今眼前に転がるのは、数秒前には生きていた女性徒。生前を思わせることはなく、どこか
 ブリキのおもちゃが壊れてしまったようにも見える。

  日常という領域では決してありえぬ光景に、渚はパニックになり、茫然自失となっていた。

  だが、

『ゥゥゥゥゥゥウウン…』

  「何か」が急速に集められる音。

  もやがかかったようにはっきりとしない頭で、渚は音を聞いていた。どこかで聞くよう
 な音、だが、一度も聞いたことがないものだった。

  かろうじていえるとしたら、『風』がビルの隙間などを通り抜ける時の唸りに似ていた。
 しかし、今聞こえるのはそれを遥かに強力に圧縮したような音だった。

  圧倒的な力を持つ『それ』がいくつも、自分の周りで形成されていくのがわかる。

  生物として全身が訴えてくる絶望。渚の全身を、かつてない恐怖が這いずりながら
 体の動きを縛っていく。

  声が上手くでない、足がいうことを聞かない、膝が笑っていまにも崩れ落ちそう、腕は
 小刻みに震えている、奥歯がカチカチと小気味よい音をたてている。

「誰か! 警察を呼んで!」

  遠くから誰かが叫ぶ声、それに重なり多くの悲鳴が聞こえた。

  だが、今の渚にはそれら全てが現実のものと感じられなかった。体が鉛のように重く、
 五感までも鈍く錆び付いていた。

『ヴゥゥゥゥッゥゥウウンンン』

  音がさらに甲高くなる。全ての音の殺意は、渚に向けられていた。

  確実な意志をもって「何か」が、飛来する。

  なのに自分の体はいうことをきかない。

「渚!!!」

  すぐ近くから声が聞こえた。と思ったとき、体に重い衝撃を感じ、それと同時に渚の体
 は、誰かに抱きかかえられるようにして吹き飛ばされていた。

  腕から鞄がずり落ち、その場に残る。

  渚は見た。まるでそれが当然のように、鞄が次々が分断されていく姿を。

  一瞬その光景を眺め、すぐに強い衝撃が体を襲った。渚は、自分を抱きかかえている
 人物とそのまま地面を転がり、二転三転した。

  ようやく止まり、体を起こそうとする。だが渚はしっかりと抱かれ、助けてくれた人物の
 胸に頭をよりかけている形だったので、それは叶わなかった。
 
  目線をあげ、確認を取る。果たして誰が自分を助けてくれたのか? と。

  途端、渚は急激に顔が熱くなるのを感じた。

  渚を抱きしめている人物、稔は普段見せぬ光を目に宿し、険しい表情で虚空を睨みつけ
 ていた。

  妙にしおらしくなった渚が、稔の腕の中で消え入るように呟く。

「み、稔…もう大丈夫だから……」

「し、黙ってろ」

  稔が渚を制し、いまだ虚空を望んでいる。

『……ゥゥゥゥ』

  聞こえる、さっきより遥かに小さいが風の集まるような音。稔は目に見えぬそれを見よう
 としているようだった。

  やがて、蝶の羽音ほどになり、溶けるように消えて行った。

  そこでようやく警戒を解く。

  稔は腕の中の渚を立ち上がらせて話しかけた。

「だいじょうぶかいお嬢さん? ってああタンマ、スマン、ごめんなさい、もう言いません。
俺のキャラじゃない…よし、大丈夫でおじゃるか?」

  いつもと変わらぬおちゃらけた口調に、渚は落ちるように力が抜けるのを自覚した。

  軽く咳をして呼吸を整える。まだ顔が赤い気がしたが、なるべく声に動揺があらわ
 れないように、

「ああ、助かったよ。ありがとう稔」

  心底安堵しながらいった感謝のことば。稔は気にするな、といって答えた。

「これでお前への貸しは一つ、一昨日の約束と合わせて二つ。あとでちゃんとアイス奢れよ。
ニ個な、二個」

  俺の命の価値はアイス一個かい、と渚が呆れて声も出せないでいると、視界の
 端に映る人影があった。

「……井上、小夜子?」

  数十メートル離れたところで、悔しそうに、だが嬉しそうに、口元から血を流したまま笑ってい
 る小夜子がいた。事態を傍観していた人々に紛れて、こちらを見ている。

「どうした渚? まさか、脳を激しく打ってボケたとか?」

  稔のボケに、渚は答えなかった。ただ、

「へぶ!」

  しっかりと打撃は打ち込む。渚は、群集の波を掻き分けて消えていく小夜子を食い
 入るように見詰めていた。

「ぐゥ…?」

  渚の打撃に悶絶している稔はわけもわからず肩をすくめた。

  やがて、渚にわからないように再び虚空を睨んだ。渚を抱きかかえて転がった時、僅かだが
 大気中に嗅ぎなれていた匂いが混じっていたのだ。

  大気の焦げる匂い。

  稔は、胸ポケットに入っていたボールペンを渚が立っていた場所、いまは血と内臓で
 紅く染まり、誰もが目を逸らす光景をしっかりと見やり、大地に向かって投げつけた。

  すると、ボールペンは音も立てずに蒸発して消えた。

  副産物的に発祥する局所的超高周波。伴って地面が僅かに放電している。

「まさか…」

  顔を上げ、稔は夕日に染まる空を睨み続けていた。







 


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